いつか臨む八月の青


 教室は光で溢れていた。
 春の初めの夕日には色がない。ただ眩しいだけの光にさらされて埃がチラチラと輝き、室内は古い写真のように霞んでいる。そんな静かな景色の中心に彼はいた。長身を折りたたむように机に突っ伏した姿は、傍から見るとひどく窮屈だ。なのに学生服の背中は安らかに上下している。
 私はそっと近づき、無防備な首筋に容赦なく手刀を落とした。げうっとくぐもった声を上げて、久我丞 秋葉(くがじょう あきは)が飛び起きる。
「おまっ、なにすんだ!」
「チョップ」
 答えると睨まれた。切れ上がった目尻が険を含んでギラリと光るが、あいにくそれで怯えるほど短い付き合いではない。そして睨む権利など、こいつにはない。
「チョップで悪けりゃ天誅。多賀谷(たがや)に聞いたよ、判定Cだって? この時期に判定C? 居眠りなんかしてる場合なの判定C。ずいぶんと余裕ね判定C。教科書と枕の区別もつかないの判定C」
「し、シィシィ言うなっ」
「あたしだって口にしたくないよ、そんな絶望的なアルファベット。あのね、Cって合格率三十パーセントだよ。……三十パーセントを小数に直せる?」
「小学生扱いかよ! 〇・三だろ、バカにすんな!」
「バカでしょ実際。あんたねぇ、あたしと多賀谷の苦労をなんだと思ってんの。多賀谷はいいよ、あんたと同じ学校行くためだから。あたしはボランティアだよ? たこやきとかマックとか吉牛以外なんの見返りもなくカテキョーしてやってるんだよ?」
「け、けっこうあるじゃんよ見返り……」
「黙れ」
 短い言葉を叩きつけると久我丞がすくみあがった。学年末生まれのくせに学年一発育のいい男子が、子犬のように身を震わせる。なんて情けない。これが本当に、県内の有名スポーツ校や野球強豪私立校からの熱烈ラブコールを一身に受けた、超豪腕ピッチャーか。
「ったく、だからスポーツ推薦受ければよかったのに。多賀谷なら一般でもほとんどの学校受かるんだから、あんたさえなんとかなれば高校でも問題なくバッテリー組めるでしょうが」
「だって正宗が私立は金かかるから無理って言うし。市工(イチコー)は遠いし泉修(せんしゅう)は寮だし、それに俺、規則とか上下関係とかうるせートコ絶対合わねぇし――」
 今度は言葉ではなくプリントを机に叩きつけた。怒りをこめた手の下で、五枚の白い紙が少しゆがむ。
「……そういうわがままは、合格圏内にいる人間にしか許されてない台詞だと、どうしてわからないのかなこのピンポン球ヘッドは」
「ピンポン球ぁ?」
「小さい、軽い、からっぽ」
「からっぽだとー!」
「からっぽでしょうが! なにこの答え? 『犬軍そう』って誰? どこのアニマル部隊? どこのケロロ軍曹!? あんた本気で高校行く気ある!?」
 机を叩きまくる。都合九回プレスされたプリントをとどめとばかりに掴みなおすと、私は久我丞の鼻先にそれを付きだした。出せる限界の低音で凄む。
「いい? 多賀谷は判定A、あんたは判定C。多賀谷は八十パーセントの確率で受かるけど、あんたは七十パーセントの確率で落ちるの。今から一日二十四時間勉強して、神仏拝みたおして、他の受験生がインフルエンザになるよう呪いをかけたとしても、あんたと多賀谷が高校でもバッテリーになれる確率は五月のツバメの飛行高度だと自覚しろ」
「ご、五月のツバメの飛行高度がどのくらいか、わかりません…」
「地上スレスレ低々ピューだ!」
「ピュー!?」
 丸よりバツの数が多いプリントが、久我丞の息で揺れた。
「わかったらこのプリントたち、明日までに完璧に復習してくること」
「………はい……」
 しおしおとうなだれた後頭部に苦笑して、私は伸びてきた前髪を掻きあげた。部活をしていた頃はいつも眉より上にあったのに、最近気づくと瞼を撫でる長さになっている。
峰子(みねこ)、髪だいぶ伸びたよな」
「あんたもね」
 けれどお互い、日焼けはとれないままだ。私は陸上部。久我丞たちは野球部。小学校のときは共に少年野球団。メラニン色素はもはや脱色不可能なほど沈着しているのだろう。
「ところでさ、多賀谷はどこ?」
「ああ、正宗(まさむね)は外。部活」
 ミントのタブレットを手の上で振りながら久我丞が答える。
「さっき、とんでもねぇファウル球が飛んできてさ。あいつ怒って、そんなバッティング教えてねぇ指導しなおしちゃるって出てった」
「はぁ、そりゃご苦労様ですこと」
 差し出されたミントを二つだけ口に放りこみ、奥歯で乱暴に噛み砕く。後輩より面倒みなければならない生き物がここにいるだろうに、あの野球バカめ。
「それであんたがサボって居眠りなんかしていられたわけか」
「うっ、ま、正宗には寝てたこと内緒だぞ!」
 口いっぱいに頬張ったミントを飛ばさんばかりの勢いで言われて、私は身体も気持ちもやや引きぎみで頷く。あいかわらずだ。久我丞は多賀谷に逆らえない。多賀谷が絡むととたんに「泣き虫秋葉ちゃん」の顔になる。
 まさむねと一緒じゃなきゃやだ。
 小さくて細くてしょっちゅう熱を出すうえに、わがままで、かんしゃく持ちで、極端な人見知り。久我丞秋葉はそんな子どもで、「しっかり者の正宗くん」だけに懐いていた。私のいた少年野球チームに入ったのも、多賀谷が入ると言ったから。ストーカー児童だ。
「み、峰子?」
「ん?」
 我に返ると、どこか緊張した面持ちの久我丞が私を見上げていた。
「な、なんで俺をじっと見てんだ?」
「ああゴメン。ちょっとしみじみとね」
「しみじみとなんだよ」
「うん。あんたは駄目な子だったなぁと、しみじみね」
 ガクッとよろめいた久我丞を放って、窓に向かう。サッシを思いきり開けると、風が吹きこんだ。髪を揺らし、むきだしの耳を掻いていく。寒いとぼやく背後の声を、私は笑って無視する。早々に暦に従う日差しと違い、抗うように冷たいこの季節の風が私は好きなのだ。
 前日の雨の余韻がまだ残る、湿った土の匂いが鼻先をくすぐる。私たちの学校では、学年が上がるにつれて教室は下の階になる。早く三年生になりたいと二年間ぼやいていた友だちは、晴れて一階を手に入れたとたん今度は土臭いとぼやいた。だけど私には親しみ深い匂いだ。
 グラウンドからたくさんの掛け声が聞こえる。白黒ユニフォームの背後でひときわ大きな声を張り上げている、仁王立ちの小柄な学生服が多賀谷だ。中一に間違えられる外見と反対に、彼の声は迫力がある。もっと野太い、中学生らしくない声質の男子はたくさんいるけれど、彼のそれはもっと内面に起因したものだ。自分よりずっと恵まれた体格の部員たちを全国大会まで率いた主将の、貫禄とでもいうものか。
 小さな身体にプロテクターをまとって、マスク越しに声を上げる守りの要。目をみはるほどの速球を投げる反面、ムラッ気で打たれ弱いところのある久我丞を、誰よりうまくリードできるのが多賀谷だ。
 有名校のスカウトも女子の声援もエース久我丞に殺到したけれど、私は知っている。多賀谷がいなかったら投手の久我丞は、いや、野球選手の久我丞はいない。大好きなまさむねが頑張れと言うから頑張った。大好きなまさむねが褒めてくれるから投げた。
 身体が丈夫になったことや手足が伸びたことなど付属だ。投手としての資質があったことさえ偶然だ。久我丞秋葉の原動力は今でもただひたすらに、多賀谷正宗。そして多賀谷正宗が体格のハンデを克服して捕手を続けた理由も、久我丞秋葉だ。
 十八・四四メートルの距離で向かい合う、九人の中の特別な一対一。
 カィン。冷たい空気に澄んだ音を響かせて白球が飛んでいく。軟球でもうまく当てれば心地いい打撃音がする。きれいな放物線。少しだけ、懐かしい気持ちになる。三年前までは私もああやって白球を追いかけていたのだ。五年生までは四番ショートで。六年のときは一番センターで。だけど私のポジションが変わっても、野球を辞めても、多賀谷と久我丞のいる場所は変わらないままだ。
「なあ峰子、松高(マツコー)の推薦蹴ったんだろ。あそこ、高跳び強いのにさ」
「へぇ。よく知ってたね。野球と多賀谷以外のことにも興味あったんだ」
「おまえ俺をなんだと思ってんだ」
「主成分が多賀谷と野球。松高の推薦は、体育科しかないから断ったの。入学前から選択肢減らすようなことしたくないんだよね。だからスポーツ推薦はどこも受けなかった」
 単に脚が速いからという理由だけで選んだ部だった。けれど走り高跳びは、それまで野球ばかりしてきた私に新しい可能性をくれた。
 砂を蹴り、青空を分断する境界線までわずかな距離を走る。一歩二歩三歩。跳躍は全身で。反り返る背中がバーを越えていくとき、周りの音は消えて視界は空で満ちる。あの瞬間。追いかけて追いかけて捕球したときの達成感や塁上を駆け抜けた瞬間の興奮に勝るとも劣らない、あの瞬間の静寂と昂揚。
 好きだと思う。野球の代わりでもなんでもなく、跳ぶことが好きだと心から思う。
 だけどまだ。もっと何か。そんな思いを消すことができない。跳ぶことが私に絶対必要だと、断言することがまだできない。
「もったいね」
「え?」
「おまえが跳ぶところ、カッコイイから、す……好きなんだよ。俺も……正宗も」
 照れくさそうな台詞の中身はまるきり子どもの感想だ。けれどむしろ久我丞らしくて、素直に笑みがこぼれた。
「ありがと」
 言った瞬間、グヒッと音がして凹凸の目立ちはじめた喉が上下する。
「ウヘッ、エッ、ゲヘッ」
「……なにやってんの」
 一転呆れて、私はむせて咳きこむ背中に冷たい視線を注ぐ。噛んでいたミントごと、大量の唾液を変なところに流しこんでしまったようだ。掻きむしらんばかりに胸を抑え、長い脚でガタンガタンと机の裏を蹴り上げている。
「ほら、これ飲んで」
 さすがに少し哀れになって、スポーツバッグからペットボトルを出してやった。真っ赤な顔がこちらを見上げる。涙目のうえに鼻水まで出ていて、実にみっともない。
「……それ、おまえの飲みかけじゃん」
「嫌ならあげない。ゼイタク言うな」
「ヤ、とかじゃねぇけど……」
 掠れた声で呟き、久我丞は容器を受け取る。五百ミリリットルのボトルは大きな手の中に難なく収まった。
「鼻も拭きな。ああもう、垂れる垂れるっ」
 妙に遠慮がちに飲んでいる久我丞の手を避けて、引っ張り出したティッシュをその鼻に押し当てる。
「こういう姿を知ったら群がる子も減ると思うんだけどねぇ」
「るせぇな。俺だって知らねぇ女にキャーとか言われても嬉しくねぇよ」
 私の手からティッシュをひったくり、ゴシゴシと乱暴に拭いてゴミ箱に投げる久我丞。ストライクに決めても不機嫌なままだ。眉根を寄せて俯くと鼻梁の陰影が濃くなり、ただでさえ日本人離れした容貌がさらに際立つ。この外見とエースの冠にだまされてキャーという子がいるのは確かに無理はないと思う。あくまでも「騙されて」だが。
「もう少し断り方考えなよ。あんたさぁ、二組の森本さんに『ウゼェ』なんて言ったんでしょ。ちょっとひどいよ」
「だってあいつ、マジでウザかったもん」
 私は首を傾げた。彼女とは去年同じクラスだったが、そう悪い印象はない。
「や、だってよぉ……」
 こちらの疑問を嗅ぎ取ったらしい久我丞が、なぜか言いづらそうに口ごもる。指先がペットボトルのキャップをもてあそぶ。
「その、おまえと……付き合ってんの、とか言うからさぁ」
「あたし? ああ聞かれるね、たまに。それがそんなに嫌なら多賀谷の真似していつまでも『峰子』って呼ぶの、やめたら?」
「だから別に嫌とかじゃねぇよ。っていうか、正宗は呼んでもいいのかよ」
「あたしは今さらどっちでもいいよ。それに、一番よく聞かれるのは『久我丞くんって多賀谷くんと付き合ってるの』だし」
「は……?」
 長い指の間から、キャップがぽろりと転げ落ちた。机に落ちてイレギュラーバウンドする前にそれを受け止め、私はまだ久我丞の手の中にあるスポーツドリンクに蓋をする。
「な、なんで正宗なんだよっ!?」
「あんたが多賀谷にベッタリだからでしょ」
「バッテリーが仲イイのなんか当然だろ!」
「いくら仲が良くても相手の恋愛事情まで口出しません。……多賀谷に告白した子にブスって言って泣かせたってホント?」
「だっ、誰がそれを」
「多賀谷本人から。………ホントにちょっとヤバイんじゃないの?」
「ち、違うっ。俺はホモじゃないっ」
 必死で否定する手が机を叩き、風圧で教科書がめくれる。翻る二次方程式の周りに、赤いインクの解説文。ノートにのたうつ悪筆とは似ても似つかない几帳面な字は、彼の恋女房のものだ。眠気覚ましにタブレットを与えたのもそう。噂の八割は久我丞の態度のせいだが、ここまでいたれりつくせりだと多賀谷にも問題がないとは言えない気がする。
「ちなみに強豪校の誘い蹴って無名の男子校に行くって知られてから、一段と増えたよ、そっち系の質問」
山裾野(やますその)高校は無名じゃねぇよっ。新設だけど、今年は県ベスト四だったんだぞっ」
「残念。その程度じゃ野球に興味ない子までは広まりません」
「ううー…」
 ガックリと机に突っ伏した久我丞は、勢いで握っていたペットボトルを倒し、慌てる。
「だから蓋したってば」
 やはり先手を打って正解だった。私はボトルを片付ける。三分の一ほど残っている中身が、揺れて波打つ。
「……俺とおまえのことは聞かれねぇの?」
 ちゃぷんと。水音に重なるようにして投げ出された言葉に、目線を戻すと伏したままの後頭部。
 両腕の間に表情を隠したまま、くぐもった声がもう一度言う。
「ちょっとくらい聞かれるだろ」
「ちょっとはね」
「なんて答えてる?」
「幼なじみ」
 口の中がべたつく。私はしまったばかりのボトルをまた出して、ぐいと傾ける。
 遠慮していた唇を一瞬思い出したことは、顔に出さない。
 視界の隅にいつのまにか顔を上げた久我丞が映っている。その目が上下する私の喉を見ているように思えて、嚥下する音が耳に障る。
「…それ以外答えようがないでしょ」
 勢いよくボトルを下ろすと、さっきより乱暴な水音がした。
「半分は小学校からの持ち上がりじゃん」
「だからちゃんと少年野球時代のチームメイトだって説明してるよ」
 キャップを絞め直す。今度はその指先を見られている気がする。肌だけで視線を感じているのが嫌で、私は顔を上げた。
「あんただってそうでしょ」
 真正面から目を合わせると、久我丞は驚いたような怯えたような様子で目を見開き、それから俯いた。そうだけど。呟いて、ほんのわずかに眉をひそめる。泣くのを堪えている、子どもの頃のように見えた。
 私はボトルの底で広い額を小突く。アイテッと声を上げて、張り詰めた表情が崩れた。
「はい、手止まってる。雑談はこのくらいにして、続き」
「う、え、続きわかんねぇ」
「解説見たら?」
「……見てもわかんねぇ」
「……おねがい、しっかりして」
 計算途中で脱線した証明問題を修正してやりながら、私は密かに安堵していた。
 いつ頃からだろう。久我丞といるときにときどき、今のような居心地の悪さを感じるようになったのは。
 何気ない会話の隙に、何気なさを装った緊張感が紛れ込む。雑でも幼稚でも明朗だった言葉がほの暗く陰り、きついほど真っ直ぐだった視線が、迷う。そのたび襟首を掴んで怒鳴りつけたいような、反対に冷ややかに軽蔑したいような、そのどちらもせずにただ逃げだしたいような気分になる。
 居心地が悪い。回し飲みなんて誰とでもしていた。名前でなんて、皆呼んでいた。小学生の久我丞と私は敵同士で、遠慮なく口喧嘩したり殴りあったりしていたくらいなのに。
 正宗との付き合いが誰よりも長い私に嫉妬していた秋葉。弱いくせに絡んできては、返り討ちにあって泣く秋葉。嫌いだった。うるさくて鬱陶しくて、人真似で野球を始めたことがなにより嫌だった。すぐに辞めるだろうと高をくくっていた。なのに。
 八月の空の下、小学生最後の大会のマウンドにいたのは彼だった。ツーアウト満塁、一点差。緊張に身の縮む場面で多賀谷が言う。頼んだぞ、秋葉。期待を託されて久我丞が頷く。いつのまにか細くも小さくもなくなった背中にエースナンバー。打順は四番。
 その頃にはもう嫌いじゃなかったはずなのに、青空を背負って立つ姿を思い出すと今でもジリジリと心が焦げる。ああそういえば私、あの頃から名前で呼ばなくなったんだな、と。
 そう思ってなんだか悔しくなるのだ。
 疼くように、悔しくなるのだ。
 キィン。
 ひときわ澄んだ音がして、あ、と久我丞が顔を上げる。
「正宗だ」
「え?」
「正宗の打った音だ」
「わかるの?」
「当たり前だろ」
 そう言って、切れ上がった目がうっとりと和む。
「いい音。俺、打席に立つ正宗、二番目に好きだ」
 一番はミット構えてる多賀谷なんでしょと言えば、微笑みが肯定する。たまらなく愛しいものを思う顔だ。本当に好きなのだ。野球と多賀谷が。今はもうあの頃の私よりも真剣に、向き合っているのだ。 
「――峰子ホントは投手やりたかったんだろ」
 囁くような問いかけに、私は目を見開いた。
「他の奴に昔、聞いた。打順も、俺が……」
「入団したときの話でしょ。あたしは自分のポジション気に入ってました。ご心配なく」
 つい今しがたの回想を読み取られたような気まずさをなんとか隠して、私は笑う。
「そんなこと今まで気にしてたの?」
「や、よくわかんね。でももうすぐ会えなくなるだろ。その前に俺さ、おまえにさ……」
「気にしてないって。だからつまんないこと言ってないで、はい、問六に再チャレンジ」
 強引に会話を終了させた私に不満そうな顔を寄越して、それでも久我丞は素直にシャープペンを取った。カリカリと硬い芯の滑る音を聞きながら、私は開け放した窓の向こうに目をやる。アルミサッシに区切られた薄い青。雲がところどころ漂う、ぼんやりと眠そうな春の青空が広がっている。
 この青に一日、一週間、ひと月と青を重ねていき、夏の空ができあがる。くっきりと鮮やかなその青の下に、今年も久我丞と多賀谷はいるだろう。いきなりレギュラーになれるかはわからない。だけど同じ場所にはいるだろう。もしも久我丞が志望校に落ちたら、一緒に滑り止めの学校に進むと多賀谷は言っていた。秋葉には秘密だと、笑っていた。
 ためらいがない。揺るがない。崩れない。久我丞秋葉と多賀谷正宗の十八・四四メートルは、絶対だ。
 それを思うたび疼く。ジリジリと焦げる。投手とか打順とかそんなことじゃない。欲しかったものはもっと違うもので、それは久我丞だけじゃなくて多賀谷も持っているもので、だから私は向かい合う彼らを見るとき、最も強く唇を噛むのだ。
「できた!」
 大きな声に我に返ると、久我丞が満面の笑みで答え合わせを求めていた。犬のようだ。苦笑して、私はノートにのたくる式を追いかける。交代に、久我丞が窓の向こうへ視線を流した。今度は自信があるのか鼻歌など口ずさんでいるが、音階が微妙だ。
「……なぁ、あのさ」
 機嫌の良いリズムが途切れる。
「正宗って、けっこうモテるんだぜ」
「知ってるよ」
「気になんねぇ?」
「あたしはあんたじゃないから、別に」
「……ふぅん」
 鼻歌の代わりに、机の横に投げ出された長い脚が落ち着かなげにリズムを刻みだす。視界の端で動くその足首が、少し気に障る。
「おまえはねぇの、告白とか」
「『キャー大好きですセンパイッ』ていう女の子ならあんたより多いけどね」
「相変わらず一人タカラヅカかよ」
「おかげさまで。その辺の男子よりアタクシ凛々しゅうござぁますからね」
 身長いくつ。百七十。デケェ。うるさい。何気ない会話に隙間ができないように、いつもどおりの悪態を投げ合う。
「でもホントはいるだろ、好きな奴とか」
 笑いながら久我丞が言った。
「全然」
 笑ったままで私も答えた。
「色気ねぇなぁ」
「ホモに言われたくない」
「ホモじゃねぇって」
「どうだか」
 怒鳴ることも冷笑することも逃げだすこともしない。居心地の悪さなど、感じていないフリをする。キィンとまた、多賀谷の音が響く。 
「俺さ」
 机の上の左手に、不意に久我丞が触れた。
「俺、おまえより背デカイよ」
 横顔が囁く。子どもの丸みがとうに失せた頬と、かすかにざらついた顎。引き結ばれた厚い唇と、窓の外を見たままの黒の強い瞳。
 ほのかに赤い目尻に、隙を突かれた。
「――なにその競争心」
 ほとんど反射に任せて口を開く。そのくらい見りゃわかるよレベル低いなぁ子どもじゃないんだから。いつもどおりの悪態を並べて何気ない会話を取り繕おうとしたのに。
「離してよ」
 抜き取ろうとした手を握られて失敗した。
「嫌なら振り払えよ」
 それができる程度にしか抑えていないからと、緩い束縛の感触が教えている。手の甲に伝わる、熱い体温と硬いまめの感触。切り揃えた爪。逆さまに私を覆う、私よりずっと大きな右手。
 違う、と。どうしようもなく思う。欲しいのはそれじゃない。応えられない。
 まだ、もっと、他になにか。
 ぜいたくなのかもしれない。見栄を張りたいだけなのかもしれない。本当はこれ以上なんてないのかもしれない。
 だけど心が焦げる。疼く。このまま悔しさに唇を噛みしめているだけじゃ嫌だと喚く。欲しいのだ。久我丞の多賀谷のように、多賀谷の久我丞のように、絶対のなにか。あの青い空の下でもくっきりと鮮やかなふたりの姿のような、揺るぎないなにか。
 私は右手のボールペンを握りなおした。
「……ぉあっ!?」
 すっとんきょうな声を上げて、久我丞が手を引く。落書きされた甲を見て、なんとも情けない顔をした。
「人が真剣に話してんのになにすんだよっ」
「報復。離せって言ったでしょ」
「バカとか書くなっ」
「バカじゃん。ほらまた一箇所ミス。せっかく解き方はわかってきたんだから、ケアレスミスなくしなさい」
「うー」
 悔しげに唸りながら、同じ形式の問題にもう一度取り組みはじめる久我丞。私は人差し指と中指でペンを回しながら、意地悪く笑ってみせる。
 なんで振り払わなかったと聞かれたから、投手の手に乱暴できるわけないと答えた。
「投手か」
「そうだよ」
「……そっか」
 呟いて笑う。長い睫毛の影で少しだけ瞳が揺れていたけれど、久我丞はそれ以上なにも言おうとはしなかった。
 教室の前の廊下を、何人かの女子のグループが笑いながら駆けていく。校舎のあちこちに吹奏楽部の演奏がこだましている。
「『蛍の光』だ」
「『仰げば尊し』だよ」
 今さら気づいたように放課後の喧騒に耳を傾けながら、私たちはたわいない会話に戻っていった。 
 多賀谷が球を打っている。その音がやはりなによりも澄んで聞こえる。
「……ていうか打ちすぎじゃね?」
「打撃指導に行ったわけで、練習しに行ったわけじゃないよね」
 ふたりして窓から覗くと、いつのまにか選手たちはグランドに散っていた。
「あっ、あいつ守備指導までしてやがる」
「戻ってくる気あるのー?」
 走れ走れと怒鳴る、相変わらずの大声を聞きながら私たちは思わず笑った。
「なぁ甲子園まで応援に来いよ」
「まず高校行けよ」
「うっわ、マジでムカつく」
「悔しかったら返上してみせな」
 さっきの落書きを軽く叩いて、私は窓枠に足をかける。
「なんか忘れてそうだから、連れ戻してくるわ」
「窓から行くなよ。サルか、おまえ」
「うっさい。『汚名返上』漢字で書いてみろ」
「だから小学生扱いすんなって!」
 叫ぶ声を背中に聞きながら、私は飛び降りる。難なく着地して見上げれば、西の空が夜に傾きはじめていた。深みを増した青に、いつか来る夏の色を思う。
 八月の一番青い空の下、向かい合うふたりを私はどんな思いで見つめるだろう。願わくば唇を噛み締めるのではなく、揺るぎない笑みを浮かべたい。
 熱の名残を感じる左手を強く振って、私は歩き出した。
 
 
 <了>

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