春宵散策


 

 桜の花は去ってしまい、けれど五月の花はまだ蕾。
 そう、ちょうど今くらいの時期でした。
 僕は研修を終えたばかりの新米医者で、父と叔父の病院を手伝いはじめて、ようやくひと月というところでしたね。あの頃はしょっちゅう二人に怒鳴られては、トイレでこっそり泣いていたものです。
 いや、冗談じゃなくて。怖いんですあの人たち。短気で口が悪くて、医者というより大工か畳職人みたいな気性。そのうえ父は鬼か閻魔様、叔父はヒグマかゴリラみたいなご面相ですからね。僕の顔を見て患者さんたち、ホントに親子か親戚かって何度も聞いてましたよ。ええ、本当に、血のつながりを感じるのは食べ物の好みくらいでしたね。三人とも豆腐とホッケとタコわさが好きで……、おっと。
 話が逸れちゃいましたね。
 とにかくこの頃の僕は、目の回るような慌しさについていくのがやっとでした。この町は小さな町でしたが、近くに他の病院がないおかげで、どんな病気でもとりあえずはウチに相談に来るというのがならいのようで、そりゃもうおじいちゃんおばあちゃんから、お子さんニャンコちゃんまでいらっしゃる。ええまあ、必要な患者さんにはちゃんと他の病院を紹介しますけどね、父も叔父も頼られると無下にはできない性分でしたから。
 はい。『松永なんでも医院』って、その頃から言われているんですよ。
 
 あの日もそんな忙しい一日でした。最後の患者さんを見送って、さあ片付けだというときに、お豆腐屋さんのラッパが聞こえてきましてね。ジャンケンに負けた僕が買いに行くことになったんです。はは、こういうところは公平だったんですよねぇ。財布片手に白衣のままで、ラッパの聞こえる方角へあたりをつけて走りました。
 パァーア、プウーゥ。独特のメロディは暮れ時の空気に舞い上がり、家々の屋根を滑って茜空に広がります。あの角この角曲がってみても、目指す姿はどこへやら。音はすれども姿は見えず、影踏みごっこの鬼の気分。
 追いかけ追いかけ、いつのまにか僕は仙竜川の橋の上まできていました。
 どこをどう間違えたのか、ラッパははるか彼方。屋根の瓦もブロック塀も、玄関脇に大小並んだ自転車も皆、薄暮に染まって茜色。明かりのついた窓からは夕食の匂いやお風呂の湯気が、笑い声やら話し声とまじりあって、楽しげなざわめきを作り出しています。
 もう追いかける気になれず、かといってそのまま帰る気にもなれず、橋の上から川面を見下ろした僕は、そこに咲き誇る菜の花に目をとめました。
 暮れ色の中でも不思議に鮮やかなその黄色。惹かれるように、足が土手へと向かいます。ちょうどいい、このままぐるりと川沿いに町の外側を巡って帰ろう。商店街まで足を伸ばして、お豆腐買って帰るのもいい。そんな気分になって、春の緑の栄える土の上に踏み込んだのでした。
 
 川べりの道は静かでした。水の流れは耳を澄まさないと聞こえないほど穏やかで、ときおり川下の鉄橋を駆けていく電車の足音が聞こえてくるくらい。橋の上から聞いた町の声は、ここまで届かないようでした。
 菜の花は中洲から斜面を埋め尽くしていました。しゅんしゅんと背すじを伸ばす茎の上にぽこんと咲いた黄色はまるで真新しい通学帽のようで、思わず顔がほころびます。この日の最後の患者さんも、きれいな黄色の帽子の子どもさんだったんです。膝小僧を消毒されて痛かったろうに、お友達の手前と我慢したんでしょうね、うっすら浮かんだ涙をパチパチと瞬きして乾かしていましたよ。
 僕もあの子のように、がんばらなきゃならないなぁ。今はまだ「タマゴ先生」なんて言われているけれど、来年の今ごろにはせめて「ヒヨコ」くらいにはしてもらえるように、ならなきゃなぁ。
 ひと月怒られっぱなしで、らしくもなく、少々落ち込んでいたんでしょうね。のどかな川べりの光景を眺めながらそんなことを考えていたら、ふいに目の前の草むらが揺れました。
 ひょこりと。
 本物の通学帽が現われたんです。
 新一年生でしょう。キレイな若草色のワンピースを着たおかっぱ頭の女の子は、よじよじと草の下から這い出して、泥のついた膝小僧をパンパン叩きます。それからズレた帽子をちょいと直して、僕を見ました。
 にっこりと笑う顔が、とっても可愛らしい子です。あんまり遅くまで遊んでいちゃ駄目だよ、と。腰をかがめて言おうとしましたが、女の子はそれより早く、クルンと背を向け走っていってしまいました。
 あっと呼び止めようとした僕の横を、さらに三人の女の子が走り抜けていきます。どの子も揃って緑のワンピース、おかっぱ頭の上には黄色い通学帽。すれちがいざまこちらを見た笑顔も、そっくり同じ可愛い顔。
 あれ、と思いました。だってもし四つ子ちゃんだとしても、色まで一緒のお洋服は着せないでしょう?
 ぽかんとしていると、今度はわーっと元気な男の子たちの声がして。茶色のぽわぽわした髪型の集団が、これもそっくりおんなじ姿かたちで僕の両脇をすり抜けていきました。
 はしゃぐ声が遠くに消える間もなく、後から後からたくさんの人が僕を追い抜いていきます。スマートなお嬢さんたちは赤白黄色のスカートの裾を揺らしながら。軽やかな足取りのお姉さんたちは、きらびやかなショールをひらめかせながら。少年たちはのびやかな手足で風を切り、お年寄りたちはゆぅるりゆぅるり漂うように川上へ、初花山(はつはなやま)へと向かっているのです。
 初花山はその名のとおり、このあたりでは一番初めに花が咲く山です。春の神様のお旅所といわれていますが、観光名所があるわけでも、お祭りがあるわけでもない、自然のままのお山です。……日の落ちる時分に足を向けるような場所じゃあ、ないですねぇ。
 もちろん尋ねてみましたよ。けれど皆さんクスクスうふふと笑うばかりで、なにも答えてくれません。なにやら親しみ深げな眼差しはくださるんですけどね。
 けれど大勢に話しかけたおかげで、僕はあることに気がつきました。それはね、知っている人がひとりもいないってことです。この町は小さな町で、ただひとつの病院にいる僕は、ほとんどの人と顔見知りのはずなのに、ですよ。
 
 あれ、どうしました、顔色が……。ああ、逃げないでください、大丈夫。たしかに少ぅし不思議かもしれませんが、怖い話じゃあないんですから。
 
 はい。
 僕はあまり怖いと思いませんでした。不思議な人たちに会うのは、これが初めてではなかったので。
 ええ。ときどきですけどね、羽の生えた人たちが空を飛んでいくところとか、木からおじいさんが出てくるところとか。真っ白い竜みたいな人を見たこともありました。病院にもときどき、尻尾の生えた子や鱗のある人が来ますしね。父や叔父は気づいていませんけど。
 ですからこのときも首を傾げはしましたが、怖くはなかったんですよ。僕は偶然に同じ道を歩いているだけですから、なにも害はないだろうと。こんなに大勢を一度に見たのは初めてでしたし、なにをしに行くのか気にはなりましたけど。まあ、聞いても答えてもらえないんですから、しょうがないと思っていましたよ。
 けれど次の橋が見えてきて、そろそろ町の中へ戻ろうかというときでした。
 明太郎(あけたろう)先生、と。
 僕の名前を呼ぶ人がいたんです。
 橋の手前の、背の低い桜の木の下でした。満開の重たげな枝の下に、ほっそりした少年が立っていたのです。
「なんでも医院の、明太郎先生ですよね」
 そう言って、彼は小さな子らを幾人も足元にじゃれつかせながら、僕に微笑みかけました。繊細そうな賢そうな顔立ちに、眉のあたりできっちりとそろえられた色の薄い髪。彼もやはり親しげに僕を見ましたが、やはり覚えはありません。小さな子たちはきゃらきゃらと笑いながら、「あけたろセンセ、あけたろセンセ」とくり返していますが、こちらもやはり知らない子たちばかり。
 返事をしてもいいものか、戸惑いながらも僕は、とりあえず頷いてしまいました。子どもに意地の悪い態度をとるのは、あまり気分のいいものではないでしょう?
「いい宵にお散歩ですね、先生」
「君たちもね。ええと……」
「ハクと申します。いつぞやは身内の者が先生のお世話になりました」
 ハク少年は深々と頭を下げました。話し方と言い、態度といい、とても礼儀正しい少年です。白の開襟シャツに黒いズボンの組み合わせと、白くて細い首の線から中学生かと思っていましたが、案外もっと年上なのかもしれません。
「先生、僕らもご一緒させていただけますか?」
「ああ、ごめん。お散歩はあの橋まででおしまいなんだ。あとはお豆腐屋さんに……」
「橋? どこに橋があるのですか?」
「え?」
 あるじゃないかそこに、と言いかけた僕は、自分の目を疑いました。さっきまでたしかにあったはずの橋が、なくなっていたんです。
 しつこく瞬きを繰り返す僕に、少年はまたにっこりと笑いかけます。
「お山に行かれるのでしょう。ご一緒させてくださいな」
「……いや、その」
 なんでしょう、これは。めずらしく僕は彼らの世界に巻き込まれてしまったのでしょうか。
 子どもたちが僕の両手をとって歩き出します。きゃらきゃら、きゃらきゃら。ご機嫌なその子たちのおしりにはふっさりとした尻尾、クリクリしたおつむには三角のお耳。だけど手はどこから見ても小さな子どものそれで、やっぱり乱暴に振り払うことができません。
 こうして僕はなにがなんだかわからないまま、不思議な人たちの集まる初花山まで行くことになってしまったのでした。
 
 
 あ、お茶冷めちゃいましたね。
 淹れなおしてきますから、ちょっと待っててくださいね。
 
 
     
 
  
 
 
 

 
 
 
   
 
 
  
   
 
 
   
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