掃除もそこそこに部活へ行こうとする秋葉を呼びとめて、教室に引きずり戻した。
 ぐえ、と。平均身長以下の俺に首根っこを掴まれた秋葉(あきは)が、長身を逆「く」の字に折り曲げて呻く。
「ちょ、な、死っ」
「死なねー死なねー。いいからおまえちょっと座れ」
 空いている席に適当に腰を下ろさせる。ん、と掌を広げてみせると、ぽんと右手が乗せられた。お手だ。素直さに苦笑しながら、逆と言う。掌の方を向けろと。
「揉んでやる。疲れてんだろ」
「え、や、たいしたことは」
「疲れてんだよ。いいから座れ」
「部室行ってからでいいじゃん」
 俺の命令に、秋葉は珍しく渋ってみせる。コンクリート打ちっぱなしのクラブハウスは、この時期ひどく蒸す。早く行って、汗臭さが充満する前に着替えておきたい気持ちはわかるが。
「あんな狭いところで接近できっか。他のやつにも邪魔だし、なにより暑苦しい」
「……はいごめんなさい」
 そのとおりだと思いなおした秋葉が、そう言って右手を返す。俺はさっそくその使いこまれた掌に、両手の指を絡める。椅子を引き寄せて距離を詰めると、制服の膝同士が軽くぶつかった。秋葉がうひぃと変な声を上げて腰を浮かせる。
「まさまさ、正宗(まさむね)ちょっとどけて。ひひひひ膝、あたっ」
「……おまえ、そのくすぐったがりマジでどうにかならないわけ?」
 妙な悲鳴に近くにいた友人がぎょっとした顔をしたが、そこにいるのが俺たちだと視認した時点で、ああなんだとなまぬるい顔になる。机を並べる級友にそういう納得のされ方をしている自分たちが、少々悲しい。
「…っとに。じゃあ開け。その長い脚、邪魔にならねえようにおっぴろげとけ」
「……正宗、品がねえよ」
「おまえに品性云々言われたかねえな。オラ、早くしねえと大好きな練習に遅れっぞ」
 ぴたりと笑いの痙攣が止まる。炎天下での地獄の反復練習なんて、本当は好きなわけがない。それでも視線が窓へ向かう。アルミサッシに区切られた四角い空間に、入道雲の浮かぶ空。鮮やかな青と白のコントラストが連想させるのは俺たちにとって、海でもひと夏の恋でもなく、快音響き渡るグラウンドなのだ。
 おとなしくなった秋葉の、その日本人とは思えない長い脚の間に納まるようにして、俺は右手のマッサージを開始する。軽く圧した俺の親指を、分厚い掌が圧し返してきた。
 
 校舎の周りを囲む樹から、蝉の大合唱が聞こえてくる。残り少ない生命のすべてを使って、こちらの寿命を縮めようとしているとしか思えないその騒音から少しだけ離れた三階の教室で、俺は幼なじみの掌を丁寧に揉みほぐす。
「あちぃな」
 椅子の背に身体を預けて秋葉が呟く。グラウンドの方がよほど暑いはずなのに、日影の教室の蒸し暑さにぼやいてしまう気持ちは、よくわかる。あの場所で走りまわっているときの感覚は、すでに暑さとは違うなにかに変換されているのだろう。脳みそがそんな風に変化してもおかしくないくらいの長い年月、俺と秋葉は白球と戯れている。
「あ、正宗。ケータイ」
「おまえ、出て」
 どうせ部員の誰かだ。机の上でヴーンと低い唸り声を上げている俺の携帯電話を秋葉が取り、通話ボタンを押してから俺の耳に押しあててきた。いや、出てってそういう意味じゃ……まあいい。
 電話の相手に少し遅れる旨と今日の練習メニューを伝えて、通話終了を目で伝えると秋葉がまたボタンを押した。「……ここが共学ならおまえたちは腐った女子どもの格好のネタだ……」最後まで教室に残っていたクラスメイトが、ボソリとそう言い残して帰っていった。その手の誤解は思春期以降いやというほど浴びてきたので、もう気にしない。俺の両手が秋葉の右手を握っていて、秋葉の左手が俺の耳元にあって、大開脚の秋葉の間に俺がいる……という体勢を気にしないから、俺たちは級友になまぬるい顔をされてしまうのだろうが。
「たかヤン、なんだって?」
「じゅうぶん揉んでから来いってよ。あ、あと今日の投球練習、なしだからな」
「えーっ!」
「えーじゃねえよ。地区大会目の前だぞ。エースが自己管理できなくてどうすんだ」
「うー…」
 唇を尖らせて秋葉が睨んでくる。彫りの深いツリ目がちな瞳が険しくなるとけっこうな迫力だが、残念ながら俺には無効だ。こちらからも睨み返してやると、すぐに怯む。ただデカイだけのどんくり眼にここまでビビるのは、こいつくらいだ。
 広い背中を丸めてしゅんとなったエースを見上げ、俺は軽いため息をつく。
「最後なんだぞ。去年みたいに大事なところで筋疲労だなんてことになったら、泣くに泣けねえんだぞ?」
「……うん」
「甲子園制覇すんだろ?」
「うん」
「じゃあ今日くらい我慢できるよな?」
「わかった」
 こっくりと頷く仕草は小学生みたいだ。ふだんはこんな感じなくせに、マウンドに立つと急にしっかりする……わけでもなく、ムラッ気で打たれ弱いところのある、手のかかるエースだ。だけど調子に乗っているときの秋葉の球は、そんじょそこらの奴には止められない。
「ん」
 手首から肘を撫で上げた手の中で、秋葉がぴくりと身じろぎする。
「悪い、力入れすぎたか」
「や、平気。ちっとくすぐったかっただけ」
「……なんで脇とか背中は平気なくせに、膝と肘が駄目なんだろうなおまえ」
 あとはそう、肩も駄目だ。マッサージの重要ポイントばかり敏感な投手なんて、面倒くさいことこのうえない。こんな体質なうえに極度の人見知りだから、秋葉はマッサージの先生さえ選ぶ。去年の筋疲労だって、長年世話になっていた整体師が遠方に引っ越した結果だ。
 二度とそんな不細工な真似をさせないために、俺は去年からマッサージを習っている。
「……痛くねえか」
 一本一本、付け根から丁寧に揉みながら、俺は自分の指の全神経を使って秋葉の手に異常がないか確かめる。
「変な感じしたら、言えよ」
「へーき。……気持ちいいな、正宗の手」
「おまえの言い方は気持ち悪いな」
「だってジイちゃん先生と同じ触り方だ」
「そりゃあ先生直伝だからな」
 本当は全身覚えたかったが、さすがに一年ぽっちで及第点がもらえたのは肘から下だけだ。それでも、こいつの負担を減らしてやれるようになったことが、俺はとても誇らしい。
 すごいよなあと、秋葉がため息交じりに言う。
「正宗は昔っから、なんでもすぐできるようになるよなあ」
「まあ、そのかわり飽きるのも早かったけどな。……野球だけだ、続いたのは」
 俺も、と秋葉が笑う。おまえの場合は少し違うと俺は思う。秋葉が野球以外続かなかったのは、いつも俺を追って辞めていたからだ。
 俺にばかり懐いていた、俺にしか懐かなかった秋葉。
 十四年も一緒だったこいつとの時間も、今年で終わりだ。
「……俺さあ」
 手を動かしながら俺は言う。こういうこと向いてるかも、と。
「マッサージ習うついでにいろいろ勉強してんだけど、けっこう楽しいんだよな。整体師って、大学と専学のどっちだろ」
「………知らね」
 頭上から、低い呟きが降ってくる。少し拗ねていて、少し困惑していて、それでもなんとか平静を保とうと努力している声に俺の胸にチクリと痛みが走る。それに俺は、気づかぬふりをする。
「おまえは考えてんのか?」
「あー…」
「どこの球団入りたいとか」
「え、球団?」
「おまえに大学受けられる頭があるかよ。どうせ野球のための進路なら、親に無駄金払わせて学校行くより、とっととプロになれ」
「簡単に言うなよ」
「受験するよりよっぽど確実だろ。おまえの成績、下から数えてどんだけだよ」
「え……数え……?」
「おいまさか」
 一番か。下から数えて一番なのか。思わず見上げた俺から、そっと秋葉が目をそらした。
「……やっぱ、おまえに野球以外の進路はねえな」
 だからしっかり養生しろと、俺は親指に力を入れる。実際、、簡単ではないが不可能でもないと俺は思っている。甲子園で上りつめれば、秋葉の速球に注目するプロ球団は絶対にいる。身内の欲目と笑わば笑え。ずっとこいつの球を受けてきた俺が信じずに、誰がこいつの魅力を信じると言うのだ。
 ムラッ気で、わがままで、ときどき打たれ弱くて、扱いにくいピッチャー。だけどマウンドに立つ秋葉は、その腕のしなりは、球の軌跡は美しい。こいつを勝たせてやりたくて俺はずっとキャッチャーを続けてきた。身長は中学から伸び悩み、体格的に不利になった分を補うためにキャッチング技術と配球戦略を磨いてきた。秋葉はその間あいかわらず傲慢なほど無邪気に、同じ言葉をくり返していた。
 まさむねといっしょがいい。
 四歳のころからにまとわりついていた言葉は、けれど最近少し、遠くなった。
「たかヤン、怒ってたか?」
 少々の沈黙の後で、秋葉が尋ねてくる。
「怒ってねえよ。ちょっと心配してただけだ」
「……そっか」
 低い呟きがチクリとまた俺の胸を刺す。今度のそれを噛みしめながら、俺は秋葉の手の、やたらくっきりした生命線に沿うように親指の付け根を圧していく。
「……グラウンド行ったら、自分でどんな感じか説明しろよ」
 下を向いたままで、俺は言う。監督への説明は俺がやるから、おまえはたかヤンに話せと。
「うまく言えなくても、たかヤン聞いてくれるだろ?」
「……うん。あいつ、すごいよな」
 いまさらだ。たかヤンはものすごい奴だ。去年まで正捕手だった先輩もすごかったが、その後を継いだたかヤンは本当に同じ年か疑いたくなるほどの人格者だ。なにしろこの極端な人見知りムラッ気投手の秋葉をうまくあやしているのだから。
 俺さあと秋葉が言う。俺、高校に入るまで正宗以外とバッテリー組んだことなかっただろ、と。
「だからさ、俺さ、捕手じゃなくて正宗がすごいんだと思ってた。や、正宗がすごいのは間違ってねくて。正宗は別格のすごさっていうか」
 俺のことはいいからいったん脇に置け。すっぱり方向修正してやると、ああうんと秋葉はようやく本当に言いたいことに取りかかりはじめる。
「先輩も、たかヤンもすごいんだよな。俺、アホで性格悪いのに、打たれるとすぐ球荒れるのに、ちゃんとフォローしてくれてさ。正宗とちがって、ぜんぜん付き合い浅いのにさ」
「……そうだよ。すげー捕手ってのは、そういうことができるんだ」
 うんと秋葉は頷く。それから沈黙が降ってきた。顔を上げた俺の少し上に、決意に満ちた秋葉の顔。
「俺、今年は絶対たかヤン泣かせねぇ」
「……」
 また胸が、痛む。そうだなと答えて俺はまた俯いた。尖った肘の骨に触れないように気をつけながら、腱に沿って手首まで、マッサージの手を滑らせる。みっしりと筋肉のつまった腕だ。長年の日焼けですっかりメラミン色素の沈着した皮膚はよく焦げているが、もともとの秋葉は色白だ。野球部の宿命たる中途半端な日焼け痕から上、半袖の内側に隠れたほの白い部分に、俺は奇妙な感慨を煽られる。
 いつのまにか追い越していきやがってと、しみじみ思う自分がまるで父親のようだと、思わず笑ったら、なんだよと秋葉に聞かれた。
「なんでもねーよ」
「なんでもねくて笑わねーだろ。なに、思い出し笑いかよ」
「うっせ、今パパの気分なんだから黙ってろ」
「はぁ?」
 わけわからんと不平を垂れる口を無視して俺は笑う。思い出し笑いと言えば思い出し笑いだ。小さくて弱かった秋葉がぐんぐん育ったのは、小四の夏休み以降だ。かけっこで抜かれたのが小五の夏、身長を抜かれたのが小六の春で声変わりの先を越されたのがその年の夏。遠投と握力は中一の春で、バレンタインのチョコの数とシモい成長に関しては覚えているけど思い出してやらない。
 脳みそとコミュニケーション能力以外はすべて俺より上の状況で、それでもいつまでも犬のように秋葉は俺に忠実で、そして俺以外にすさまじく傲慢で、だからグラウンドの十八・四四メートル間は俺以外に許さなかったのに。
「正宗」
 ふいに緊張を漂わせた声が俺を呼んだ。顔を上げず、手だけを止めた俺の上に、秋葉の声が降ってくる。
「正宗はもう俺の球、捕らないのか」
「……」
 言葉が見つかる前に開いてしまった口が、ぬるい空気だけ食んだ。
「俺の球捕ってくれないのか」
 鳩尾をコンパスかなにかで突き刺されたような痛みが走った。ああついにきたと俺は目を閉じる。一瞬の暗闇に、秋葉と組んできた中学までと、組めなくなった高校からとが浮かんで消えた。走馬灯のようで縁起でもないと、苦く思う。
 いつかその問いが投げかけられると思っていた。受けとめて俺は、深く息を吸う。
「……捕らねえよ」
 一度呑んだぬるい空気を吐きだして、俺は言う。
「勝つためなんだから、捕らねえ」
 捕れないと言わないのがせめてもの矜持。頭上から聞こえる、息を吸う音が震える。
「……最後なのにか」
「最後だからだ」
 顔を上げた俺を見つめる秋葉の、黒の強い瞳が一瞬揺れて、瞼に隠れた。深呼吸の一拍を置いて、開いたそこにはもう激情はない。
「……わかった」
「……おう」
 少しだけ寂しげな目元を見つめて、俺は笑った。
 秋葉も笑う。少しだけ情けない顔で。きっとこいつもわかっていたのだ。年々威力を増していく秋葉のストレートに、俺がもう付いていけないことに。卒業した先輩やたかヤン相手では絶対にしない手加減を、俺のミットに対して無意識にしてしまうことを。そして俺がそれをどうしても許せないことを。
「……勝てよ、秋葉」
 抱きしめるように俺は秋葉の右手の上に身体を折る。元は白い、秋葉の腕。昔は柔らかかった秋葉の掌。こんなに黒く硬くなるまで鍛えた、その結晶を濁らせてしまうくらいならもうこいつの前に座れなくていい。捕手でなくてもやれることはいくらでもあるから。だから。
「おまえの球が、夏をねじ伏せるところを見せてくれよ」
 唇から直接落とした懇願は、その掌をかすかに湿らせて消えた。
 
 球場を埋める大歓声が快晴の空に響き渡り、監督の指示を受けた選手たちがグラウンドに散っていく。
 名前を呼ばれた俺は、たかヤンのレガースから顔を上げて秋葉を見た。グラウンドの明るさを背景に立つ長身は、影の中に沈んでいる。
「なんだ? こっちの準備ならすぐ終わるから、先に誰かとキャッチしとけよ」
「わかってる。じゃなくてさ、手ぇ貸してくれよ正宗」
「手ぇ?」
 残りの装着を本人にまかせて俺は立ち上がった。そうして手を差し出す。
 そっちじゃなくて、こっち。掌を向け、秋葉はそれを持ち上げる。
「え……?」
 ぽかんとした俺に笑いかけて、秋葉がその手に口づけた。背後でたかヤンがミットを落とす音がした。
「見ててくれよ、正宗」
 呆ける俺に秋葉が言う。
「ずっと見ててくれよ、俺を」
 右手が俺を包みこんでいる。硬い掌の感触を甲に、そして誇らしい言葉を掌に感じる。長い年月かけてできた、まだ硬い俺の左手。今は新しくマッサージだこのある左手。
「……見てるに、決まってんだろ」
 震える声で必死に、俺は答える。
「おまえ以外のなにを見ろってんだよ」
 秋葉が笑う。笑い返そうとして頬が引きつる。
「ほら、ボケッとしてる間に、たかヤン準備終わったぞ!」
 行って来いと俺は叫び、左手でその胸を叩いた。
 おうと叫んで秋葉がベンチを飛び出していく。俺よりずっと大きくなった背中が、揺れて滲む。まだ早い。まだ早いと俺は何度も目を擦った。
 泣くのは夏を制するあいつの姿を、しっかりと見届けてからでいい。
 
 
 
 In die hohle Hand Verlangen,
 どうか、と。その掌の上に懇願を
 
 
 
 
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