困惑する


 
 彼は、困っていた。扉の前に立ちつくし、困り果てていた。
 このドアの向こうは、彼の職場。ほんの数ヶ月前から毎日、おはようございますの挨拶も爽やかに通いつづけている新天地。少数精鋭がモットーのため毎日とっても忙しいが、やりがいのある仕事ばかり。上司は尊敬できるし、先輩たちは頼もしい。まさに理想の職場である。
 しかし今、彼はその理想の職場に足を踏み入れることを躊躇っていた。開けかけて、止めて、ほんの少し開いたドアの隙間から中を覗いたまま、動けずにいた。
 事務所の手前に据え付けられた応接ソファ。そこに、彼の先輩が座っている。新聞を広げているその口元には、いつものセブンスターがない。そして。
 膝の上には、もうひとりの先輩の頭が乗っている。
「……」
 彼はゴシゴシと目をこすり、目の前の光景が幻ではないことを何度も確認する。ダメだ。どれだけ見直しても同じだ。彼は、頭を抱えた。
 新聞を読んでいる人は、カッコ良い人だ。とっつきにくそうに見えるが面倒見がよくて、ぼんやりな彼に細かいツッコミもしてくれる、けっこうユーモアのある人だ。
 横になっている人は、優しい人だ。この人が笑っていてくれると、どんなピンチも乗り越えられる気がしてくる。見惚れるような笑顔の奥に、強さを秘めた人だ。
 そんな頼れる先輩ふたりが、今、ドアの向こうで膝枕をしている&されている。その現実をどう受け止めていいのか、彼は一生懸命考えていた。だってふたりは男同士でとっくに成人済みの立派な大人で、誰も見ていないのにそんな冗談やって笑い合うような人たちでもないのだ。
 では、あれは、なんだろう。
 ソファの上にはクッションがある。そちらの方が鍛えた男性の大腿筋よりも、枕に相応しい。先輩たちはたしかに学生時代からの付き合いで、仕事の息もぴったりの仲良しコンビだ。だが必要以上にベタベタとスキンシップをする人たちではない。少なくとも彼が知る範囲では。
 でも、ああ、どうしよう。彼が知らなかっただけで、ふたりは膝枕なんかしちゃう仲だったのだろうか。ふたりっきりのときにはベタベタしちゃうような関係だったのだろうか。だとしたら、その現場を目撃してしまった自分は今、どうするべきなのだろうか。このままそっと扉を閉めて、静かに立ち去るべきなのか。それともなんでもない顔をして堂々と入っていくべきなのか。はたまた、大きな音とか立てたりして、それとなく外に人が来たことに気づいてもらうべきなのか。というかそもそも事務所でイチャついてるってことは周知の仲ってことなのか。いやいや、だとしても職場でそういうことするのは社会人としてどうなのか。いやいやいや、それでもふたりが尊敬する先輩であることには変わりない。多少自分に理解できない付き合いをしているとしても愛の形は人それぞれなわけだから偏見はいけないそうだここは広い心で受け入れて…。
「おはようございます」
「ぅわあっっ」
 物思いの真っ最中にかけられた声に、彼は五センチほど飛び上がった。振り返ると、この事務所の常勤では唯一彼より年下の少年がきょとんとした顔で立っていた。
「なにしてんスか、ドアの前で」
「えっ、あっ、いやその…」
「…先、入りますよ?」
「あああっっ」
「?」
 慌てる彼の前を通って、少年は半端に開いていたドアを押す。
「はよーッス。……って、あれ?」
「あ、あああああ」
「なにやってんの?」
 アワアワする彼を尻目に、少年の反応は冷静だ。そして。
「お、いいところに来た。代わってくれ」
 目撃されてしまった先輩も、冷静だった。
「夜間呼び出しくらっちまってさ、コイツ、もう限界」
「だからってなんで膝枕なんかしてんの?」
「最初は座ってたんだけどな。いきなりガックーっと倒れこんできたんだよ。それこそ、よける暇もなく」
 しかたがないからそのまま乗せてやっていたのだが、さすがに脚がしびれてきたし、煙草も吸いたくなってきた。だから代わってくれ。
「起こせばいいじゃん」
「いや、あまりにもグッタリしてるから気の毒で…」
 律儀だなーと言い捨てて、少年は寝ている方の先輩の頭を、いきなりペシンと引っぱたく。
「ほら、起きて起きて。いつまで寝てんの」
「…うぅ……あと五分」
「何分でもいいから、とりあえずどきなって。イイ歳した男ふたりの膝枕なんて、痛々しくて見てらんないよ」 
 ガックンガックンと揺すられて、端正な顔が歪む。
「はい、おはよう」
「……俺、なんで膝枕されてんの?」
「趣味なんじゃない?」
「……しゅみなの?」
「おい」
「コーヒー淹れようか?」
「……濃いの」
「おいこら、人の親切におぞましいレッテルを貼るな」
「……」
 開いたドアの向こうで、のどかな会話が繰り広げられている。さっきまでの自分の苦悩がまったくバカバカしいほどに、のどかに。いや実際バカバカしい悩み方だったんだけれど…。
「ところで、オマエはいったいそこで何してんだ?」
 ようやくありつけた煙草を満足げに吹かしながら、面倒見のいい先輩が問いかけてくる。
 返す言葉も見つけられず、彼はただガックリと膝をつくのだった。
 
   
   
 
  
 
 
 <了>

 
 
 
   
 
 
  
   
 
 
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