手のひらに、あの日


 涙が出た。どうしようもなく涙が出た。
 立っていることさえできず、非常階段でしゃがみ込んで泣く少年の傍らには、彼のよく知る青年。
「泣くなよ」
 独特のよく通る声を、今は潜めて。階上で待つ仲間たちに聞こえないように、先ほどから青年は彼を宥めていた。
「なぁ、もう泣くなよ」
 何度目かわからない呼びかけに、少年は鼻を啜る音で応える。わかっている。こんな泣き方、小さな子供じゃあるまいし。わかっている。
 けれど止まらない。
 俯きっぱなしの視界に入るのは、赤錆色の階段と自分と、隣に座る人の足。十近くも年上のクセに、やたらに似合うジーンズとナイキのスニーカーを見ていたら、なんだか昔から進歩のない関係が続いているように思えて、情けないやら腹が立つやら。結果、余計に泣けてきた。
「泣くなよ」
 あやすような、少し困ったような声が繰り返す。
「い、っ」
 いいから、ほっといて。泣きじゃっくりの間から伝えても青年は動こうとしない。だって、と。やっぱり困ったように言う。
「おまえ泣いてると、俺も泣きたくなるんだもん」
 だから泣き止むまで、ここにいるよ。
「……あ、のさ」
 ガラガラに涸れた声で少年は。
「そのセリフ、あんましカッコ良くないよ」
 そう応えて、ようやく青年を見上げた。
「…うん」
 青年は決まり悪げにはにかんで。
「俺も自分で言って、思った」
 そう言うと、グシャグシャになった少年の顔を、服の袖で拭いた。
「鼻水、つくよ」
「気にしない」
 腕を引っ張られて立たされる。もう背も、ほとんど変わらないのにまるで、子どもの扱い。
「気にしとこうよ、そこは」 
「平気。俺もたまに鼻拭ってたりするし」
「…あのね」
 だからカッコ良くないってば。
「でもオマエ泣きやんだし」
 だからカッコ良くなくっていいや。
「……」
 そう言って嬉しそうに青年が笑ったから、少年は最後に一度だけ鼻を啜って、それ以上なにか言うのはやめた。
 鼻も喉も瞼もまだ痛いけれど、涙はもう出てこなかった。


 
 <了>

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