手のひらに、あの日


 非常階段に出たら先客がいた。
「よぉ」
 踵を返す間もなく手招きされて、航太はしかたなく後ろ手にドアを閉めた。錆の浮いた手摺りに体重を預けるようにしゃがみこんでいるそいつの口元には、火があった。
「いる?」
「……おぅ」
 ほんの少しためらってしまったのは、喫煙が未経験だったからじゃない。中学の宿泊学習の夜に当たり前の顔をして煙草を吸っているこの同級生、中里ゆらと口をきくのが初めてだったからだ。
 べこべこにへこんだ箱から一本を取り出して咥えると、口元にライターが差し出された。人の手から火をもらった経験などない。ぎこちなく息を吸いこんでいると、猫が喉を鳴らすような音が聞こえてきた。ゆらが笑ったのだとわかったけれど、腹は立たなかった。不慣れを馬鹿にするという感じではなかったからだろう。顔を上げてたしかめた表情はやはり悪ふざけの仲間に向けるそれのようで、むしろそれが不思議だと航太は思う。ゆら本人や、ゆらを取り巻いている連中のように、いかにも煙草を吸いそうな雰囲気など、自分にはないはずなのに。
「におい」
 手持無沙汰も手伝って尋ねると、そんな短い答えが返った。匂い? オウム返しをする航太に頷き、ゆらは自分の前に置いていた灰皿代わりのコーラの缶を、ふたりの間に移動する。そうしてそのまま、身体をこちらに傾けてきた。反射的に身を引こうとしたのに、校則よりかなり長い髪が煙草を持っているのと反対の手にさらりとかかったとたん、動けなくなった。
「しみついてんだもん、におい」
 鼻を鳴らしてそう言って、上目遣いにこちらを見上げて、ゆらは片手を航太の前にかざす。中一の男子にしては、そしてその華やかな顔立ちにしては不釣り合いなほど武骨な手からは、たしかに煙草の匂いがした。
「こぉた、けっこう吸うだろ」
 だから前から気づいていたよと指摘されたことよりも、妙に舌っ足らずに発音された三文字が新鮮で耳に残る。ここ数年、名字でなく名前の方を選ぶ人間といったらたったふたりだけで、しかもそのどちらもが緊張や苛立ちのこもった硬い鋭い音でしかその三文字を発しなかったからだろう。こぉた。そんなふうにやわらかく響くこともあるのかと驚きながら、深く煙を吸い込んだ。
 量は多いが、覚えてからの年数はまだ浅い。たぶん去年か一昨年のことだ。怒鳴り合う声も泣き声も恨めしそうな声も消えて、家の中が重苦しいほど静かになったころのことだ。
 苦い煙と一緒にだと、空気を肺に送るのが苦にならない。息がしやすい。生きやすい。あのふたりも、なにか楽になるための手段を手に入れればいいのにと思う。煙草でも酒でも、もっと違う遊びでもいい。航太を言い訳に使ったところでちっとも楽にはならないことくらい、どちらももうわかっているはずなのだから。
「こぉた」
 不意にまたやわらかく名前を呼ばれた。冷たいものが手に触れた。
 ゆらの手だった。
「ぐーにして寝てんの?」
「え、なに」
「手」
 そう言ってゆらは、さっき匂いをかいでみせた航太の左の手をやんわりと開く。そこに薄く薄く残っていた、三日月形の四つの痕を示す。
「たまにいんだよな。めいっぱい、ぐーの手にして寝る奴」
 ひんやりとした指先が、そこを撫でる。とてもとても冷たかった。さっき掠めた髪も同じくらい冷たかったことを思い出した。
 そしてふと、ゆらがいつからここにいたのかが気になった。
 どうしてここにいたのかが、聞いてみたくなった。
「こんなにしないで、楽に寝ればいいのに」
「……うん」
 航太の爪痕を撫でているその手を取って裏返したら、もっと濃い三日月が刻まれているのかもしれない。もっと違う印が焼き付いているのかもしれない。それを見つけて、ゆらが今してくれているように撫でてやりたい。無性にそう思った。
 けれど非常灯の緑色の明かりに照らし出されたゆらの横顔が、ふだん教室で目にするそれよりずっと静かで、静かすぎて、航太はなにもできなかった。ただ煙でいぶされて乾いた舌でぎこちなく、ゆらのたわいない話に相槌を打つだけだった。
 どうして同じ箱の中の物を吸っているのに、ゆらの声はこんなにやわらかいのだろうか。不思議に思う間に、煙草一本分の時間は過ぎていった。
 
 ゆらとはそれから親しくなることもなく、翌年のクラス替えで級友というかすかな縁も切れた。少しずつ煙草なしでも息ができるようになっていく航太と反対に、ゆらは今では似合いのアクセサリーのように胸ポケットにそれを飾っている。
 その額に、首筋に、手の甲に、それぞれ意味合いの違う傷痕を見つけるたび、こちらからは触れることのできなかった、中里ゆらのことを思う。
 彼の手はなにも覚えていないだろう。
 爪痕の消えたこの手のひらには今も、あの冷たさが残っているのだけれど。 
 
 
 <了>

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